訃報

原節子さん死去 横浜が生んだ国民的女優95歳
原節子さん死去=伝説の大女優―95歳


私ですらお名前を存じ上げている、伝説の大女優の訃報。美しい人だった。
42歳で引退し後半生はひっそりと暮らしていたのだそうだ。
ご冥福を心よりお祈り申し上げます。

原節子さん死去 横浜が生んだ国民的女優95歳
カナロコ by 神奈川新聞 11月25日(水)23時20分配信
 「東京物語」など小津安二郎監督作品で知られ、横浜が生んだ国民的大女優、原節子(本名・会田昌江)さん=鎌倉市浄明寺=が9月5日、肺炎のため神奈川県内の病院で死去したことが25日分かった。95歳。横浜市出身。
 原さんは1920年、横浜市保土ケ谷区生まれ。保土ケ谷尋常小学校を経て、私立横浜高等女学校(現・横浜学園)に進学するが、2年で中退。女優をしていた姉と義兄・熊谷久虎監督の勧めで、35年に日活に入社した。同年、「ためらふ勿(なか)れ若人よ」でデビュー、清純な美貌が鮮烈な印象を与えた。37年、JOスタジオ(東宝の前身の一つ)に移籍、戦後は新東宝を経てフリーになった。
 戦後、民主主義啓蒙(けいもう)の映画が盛んに作られた時代には、黒沢明監督「わが青春に悔なし」(46年)、吉村公三郎監督「安城家の舞踏会」(47年)、今井正監督「青い山脈」(49年)など巨匠の作品に立て続けに出演、聡明(そうめい)で進歩的な女性を演じてファンを広げた。
 49年、「晩春」で名匠・小津安二郎監督の作品に初出演、大輪は開花する。以後も「麦秋」(51年)、「東京物語」(53年)、「秋日和」(60年)、「小早川家の秋」(61年)などで誠実さと優しさ、知性を兼ね備えたヒロインを演じ、小津芸術に欠かせない存在になった。
 62年の「忠臣蔵」を最後に、記者会見ひとつせずに引退。以後、メディアやファンとの接触を断ち、鎌倉・浄妙寺に接した自宅でひっそりと暮らしていた。生涯独身だったこともあり、ファンは原さんに“永遠の聖女”という呼称をささげた。
◆小津映画“永遠の聖女”
 かつて世紀の変わり目に、映画専門誌「キネマ旬報」が「20世紀を代表するスター」を選んだ。女優の1位に選ばれたのはオードリー・ヘプバーンさん、邦画は原節子さんだった。
 原さんにささげるファンの賛辞は最大級だ。「におうような美貌と気品」「日本的な美徳と近代的な知性」「清楚(せいそ)で、凜(りん)として」
 原さんは私立横浜高等女学校(現・横浜学園)を2年で中退する。義兄から女優への道を勧められたためだが、経済的事情もあった。1935年6月28日の横浜貿易新聞(神奈川新聞の前身)は「日活の銀幕へ 近代的魅惑の美少女」と3段見出しと写真付きで報じている。
 記者は戦前の出演作では「河内山宗俊」を見たが、当時15歳の原さんは侵し難い美しさを漂わせている。戦後は「わが青春に悔なし」「青い山脈」などで民主主義の象徴になった。
 そして、小津安二郎監督と出会う。「晩春」「麦秋」「東京物語」などの小津芸術で、原さんは確かな演技力を示した。小津作品6本を手がけた元松竹プロデューサーの山内静夫さん(前鎌倉文学館館長)は「小津先生に対する原さんの尊敬の念は、もはや『信仰』だった」と振り返る。
 63年、小津監督死去。松竹出身の直木賞作家・高橋治さん=茅ケ崎市=は名著「絢爛たる影絵」で「あたりはばからずに号泣したのは原と杉村(春子)だった」と書く。小津監督の死後、原さんは映画に出演せず、鎌倉に隠せいした。
 大女優に、何があったのか。「独身を通した小津に殉じた」「容姿の衰えを気にしていたらしい」…。さまざまな臆測が流れ、ファンは原さんを「永遠の聖女」と呼んだ。
 若くして、自らを伝説のなかに閉じ込めた原節子さん。一つのゴシップも流さなかったが、51年11月18日の小津日記に「このところ、原節子との結婚の噂しきりなり」とある。泉下で原さんを迎えた名匠は、小津映画の笠智衆さんのように、ちょっと照れながら「やあ」と笑うだろう。
最終更新:11月25日(水)23時20分

原節子さん死去=伝説の大女優―95歳
時事通信 11月25日(水)23時4分配信
 「東京物語」「青い山脈」などで昭和のスクリーンを彩り、42歳の若さで引退、伝説的な存在だった女優の原節子(はら・せつこ、本名会田昌江=あいだ・まさえ)さんが9月5日、肺炎のため横浜市の病院で死去、95歳だった。
 横浜市出身。葬儀は近親者で済ませた。
 会社員の家庭に生まれ、高等女学校2年の時、義兄で映画監督だった熊谷久虎氏に勧められて日活多摩川撮影所入り。1935年の「ためらふ勿れ若人よ」で映画デビューを果たした。原節子の芸名は、同作の役名がお節ちゃんだったことにちなんで付けられたという。
 初々しい演技と、目鼻立ちのくっきりとした美貌で注目され、37年にはドイツとの合作映画「新しき土」の主役に抜てき。その後、東宝に移り、山本薩夫監督らの作品で演技の腕を磨いた。
 戦後、黒沢明監督の「わが青春に悔なし」で、苦難のうちに敗戦を迎えるヒロインを熱演。続いて、同監督の「白痴」、吉村公三郎監督の「安城家の舞踏会」、木下恵介監督の「お嬢さん乾杯」、今井正監督の「青い山脈」など、実力派監督の作品に相次いで出演、スター女優の地位を揺るぎないものにした。
 松竹の小津安二郎監督作品の常連で、49年の「晩春」以後、「麦秋」「東京物語」「東京暮色」「秋日和」「小早川家の秋」で、日本人の理想ともいえる美しく慎み深い女性像を具現化。小津作品になくてはならない女優として作品世界を支えた。このほか、成瀬巳喜男監督の「めし」などでも好演した。
 62年、「忠臣蔵」に大石りく役で出演したのを最後に、42歳で引退。その後は長年、神奈川県鎌倉市内でひっそりと暮らし、生涯独身を通したとされる。映画関係者との接触も断ち、表舞台に一切出なかったことが、神秘性を高めた。
最終更新:11月25日(水)23時39分