言葉の感覚

エルビス・プレスリーを聞いていてなんとなく感じたこと。
ああいう「いかにも不良です」みたいな格好・言動をしながら、急に優しい口調で
愛の歌を歌ったところが大人気になった秘訣の一つであったのかな。
さんまちゃんがよく言う「女はギャップにくらっとくるんだ」ってやつ。
しかし彼の歌うラブソングは、私にはあまり面白く感じられない。
何故かと考えたんだけど、多分歌詞が直球過ぎるからだと思う。


日本語ならなおのことだけれど、直接的な叙述よりも隠喩・暗喩が好き。
心情表現なのに風景を俯瞰したかのような描写で、一瞬考えてからやっと
意味が分かるようなのが好き。
場合によってはその時すぐには分からずに、随分後になって「ああ、あれは
そういうことか」って気づくのも面白い。
韻を踏んでいるけれど言葉の意味は逆のものを並べるとか、そういうのもいい。
(欧米の言葉は日本語ほど韻を踏むのが容易な言語ではないから、なおさら
腕の見せ所だとも思う。ルイス・キャロルは難しすぎるけれど)
裏を返せば「素直じゃない・ひねくれている」ってことなんだけど。
だから中島みゆきさんの歌が好きなんだなと思う。
彼女自身がとても言葉にこだわっている人だから。
曲自体を楽しむもので言葉(歌詞)は添え物という楽曲もあると思う。
その存在を否定はしないし外国語の歌なら私も好きな曲があるけれど、やはり
歌詞を大切にしている楽曲のほうが好きだ。
自分もジャンルは違えど歌い手である以上、聞く人に気持ちを届けたい。
そのために、歌詞をより深く理解するために言葉の勉強をしている。


外国小説を日本語に翻訳する場合、当然原文の持つ雰囲気はある程度損なわれてしまうけれど
それを差し引いてもトルストイよりドストエフスキーのほうが好きだ。
トルストイのほうが断然読みやすいと思う。キリスト教による宗教観というか
善悪の感覚に一貫して支配されていて、明快で迷いがない。(と思う)
しかしドストエフスキーのほうは疑問符だらけだ。行間を読み、背後にあるもの
を考えないと理解できない。3行読んでは2行戻るようにして読んでいった。
(単に私が知識不足なせいなのかもしれないが)
読了後に心に残ったのはすらすらと読めたトルストイではなく、四苦八苦した
ドストエフスキーだった。時間がかかった分、心に占める割合も大きいのだろう。
けれどそれだけではない「何か」に惹き付けられる。
抑圧された心の底にある何か、一見穏やかな水面の下でうごめく何か、
見えない鎖でがんじがらめにされているような、頭を抑えつけられているような、
重く鬱屈した空気のようなもの。
尤も私が読んだのは新潮文庫から出ていた分くらいだけれど。
岩波文庫の活字が嫌いなので外国文学は殆ど新潮文庫で揃えている)


本業だったフランス文学のほうは、半ば義務感から強迫観念に駆られるかのように
読んだものも多いので、もっと雑多でごちゃごちゃしている。
愛だの恋だのの話をよく何百年も続けるよなってのが一番の感想だ。
「破滅への道だと分かっていながらも抜けられない、人間の業を描いた」
といえばそうなんだろうけど。
そういえば大学のとき、バルザックの『人間喜劇(La Comédie humaine)』は
ダンテの『神曲(La Divina Commedia)』に対して書かれた物であるから
『人曲』と訳すべきであると某先生がおっしゃっていた。
本来なら『神曲』ではなく『神聖喜劇』のほうが直訳なんだけどと。


一番問題なのは、直接的表現でも間接的表現でもなんでもいいのだけれど
私自身の書く文章には一切その経験が反映されていないということだ。
ぐだぐだと書くことはできても、言いたいことがうまく伝わらない。
読書好きな人が読書感想文や作文が得意とは限らないという見本みたいなもの。
口頭でも同じことで、長く喋るだけで要領を得ず相手を疲れさせて終わる。
我ながら、結構へこむ。